第二章 社会からの脱獄。

第二章 社会からの脱獄。

ここで少しだけ、僕について聞いてほしい。

実は僕、昔旅人だった。日体大卒業後、アルバイトで貯めた10万円を持って単身カリフォルニアへ、先輩よりご紹介いただいた現地のお寿司屋さんに居候しながら夢のAVPを目指してトレーニングをしていた。

*学生時代はバレーボール部、バリバリの体育会系、AVPとはビーチバレーのアメリカプロツアー

カリフォルニアの生活は、ほぼ毎日練習か試合、ベニスからサンタモニカまで広く遠くにまで広がる海岸線を毎日片道40分くらい自転車で走っていた。

多少距離はあったが、海岸線に立ち並ぶオシャレな洋服屋さん、飲食店、怪しげなパフォーマー、大自然を感じる砂浜、岸壁、パームツリー、毎日が刺激的で苦にならなかった。

練習の無い日は、現地の人とメジャーリーグ観戦、サーフィン、バーベキューなどワイワイガヤガヤ、もうまさにハリウッド映画の中、憧れの世界で生活できている自分に酔いしれていた。

これを読んだあなたは「え、生活費10万円で足りるの?」と思われたかもしれない。

問題はなかった。僕の1日の生活費は10ドルあれば十分だった。

寝泊まりは、お寿司屋さんのスタッフの家。アメリカはリビングが広く、ソファーも大きい、そこを陣取り居候していた。それもほぼ無償で。

居候先は転々とした。通りで言うならば、初めはワシントン、次はベニス、そしてアボットキニーへ。

最近アボットキニーは、日本のメディアでオシャレなショップやカフェの立ち並ぶ大通りとして多く取り上げられている。僕はこの通りのABBOT’S PIZZAのバーベキューチキンが大好きでよく立ち寄っていた。バーベキューソースの甘さにシラントロ独特のシャープさがたまらなく美味かったことを今でも覚えている(5年前くらいにサーフトリップへ行った際にも立ち寄った、最高だった)。

食事は、それもお寿司屋さんのランチとディナーを手伝い、昼と夜ご飯をゲット、夜食はお客様の食べ残しをロッカーの上に集めメキシカンと一緒にほおばっていた。

少し炙ってポン酢で食べるアバコ、シャリと海苔が逆のカリフォルニアロール、冷たいアイスを天ぷらにした天ぷらアイス、当時の日本では見たことないネタや料理がたくさんあり見ているだけでも心が弾んでいた。

ちなみに僕は、このお寿司屋さんでバスボーイをしていた。

バスボーイとは、お客様が食べ終わった後食器を下げたり、テーブルを拭いたり、汚れ仕事専門スタッフ。僕以外は全員メキシカン、英語の話せるアメリカ人はチップを多くもらえるウェイター、ウェイトレスになるからだ。

僕はお手伝いなので給料をもらわず、チップを少しもらった。ただこのチップだけでも生活との相対収入は良く、帰国してすぐに働かなくても良いようタンス貯金をしていた。

ちなみに2019年7月からカリフォルニア州の最低賃金は従業員25人以下の場合13.25ドル(参考 ジェトロ・ウェブサイト:2019年6月)、1990年代後半の最低賃金、僕の記憶では5.5ドルだった。日本では考えられない経済成長力だ。

ここで僕は、この先の人生につながる生き方というか働き方を学んだ。

メキシカンは昼も夜もよく働く。だからといって多少派手なアクセサリーを身に着けている程度、贅沢をしている様子もない。何でこんなに働くのかスタッフに聞いた。

すると、30代までアメリカで必死に働き金を稼ぐ。その後は物価の安い母国に戻り、その稼いだ金で生活基盤の家を建て、車を買い、ゆっくり過ごすそうだ。

日本で言う定年退職が30代で、その後は好きなことをして自由気まま暮らす。ガチで働く期間が日本と30年も違うとはカルチャーショックだった。

所得格差のある国と国だからできるあらわざだと分かっていたが、僕のこの先の人生、生き方と働き方をこんな時間軸で分けて考えるのも面白そうだと学んだ。

あとは車がないので移動手段は自転車、試合のときは知り合いやパートナーがピックアップしてくれる、遊びに行くときも同じ調子。

多少のアクシデントもあった。いつもどおり練習に行く途中、交通事故に。相手は車、僕は自転車、幸い大した事故にならず相手とひとことふたこと会話をし、僕は10ドルをもらい相手は去っていった。

その日の夕方お寿司屋さんでその話をした。すると笑いながら社長は

「大バカやろー!なんで相手の連絡先聞かないんだ、交通事故で10ドルだけもらって『It’s OK!』なんて言って帰ってくるバカいないぞ、相手は大喜びだ。スー〇ーすぐに調べろ!」

と事務員に伝えたが「どうやって調べるの」、そんな空気が流れていた。まー社長に言われてみればそうだと思った。ただあの動揺している状況でアメリカ人と会話できる英語力もなかったし、携帯もない、まーしょうがないな、と思っていた。

このことは、今でも当時のお寿司屋さんの社長・スタッフと会話をすると決まって出る笑い話、良い思い出になった。それ以外は、けっこう無茶な生活をしていたが、これといった大きなアクシデントは無く、ラッキーだった。

そんな楽しい生活も気付けば3年が経っていた。いつまでもこんな生活していてはまともな社会人になれないなと思い、終止符を打つことにした。

するとお寿司屋さんのスタッフにこんなことを言われた。

「こうぞうが日本で働く?無理、無理、絶対に無理、またこの生活に戻ってくるよ」

「えっ、そんなことはないですよ、もう十分楽しみましたから」

思いがけない言葉だった。とっさにそんなことを言ってしまったが「お前はこっち側の人間だよ」と現地の人に受け入れてもらった感じがたまらなく嬉しかった。

20年以上経ってもこの会話を覚えていることは、僕の心の片隅でまたいつか戻りたい、旅に出たいと思っていたのだと思う。

それが第一章の「また、自由を手に入れたい」につながっている。

そして僕は3年間の日米往来生活を終わらせ、田舎に戻り中途採用で不動産賃貸仲介業の営業として就職、翌年に結婚、娘ができ一般的な生活に馴染んでいった。

つづく。

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