第三章 蜃気楼(しんきろう)

第三章 蜃気楼(しんきろう)

「また、自由を手に入れたい」と言ったものの、まずは事業負債1,500万円をどうにかしなくてはならない。

各メディアで起業に失敗する人の特徴や理由など様々な記事を見たことはあるが、まさか僕もそのうちのひとりになるとは思ってもいなかった。

ただ理由らしきものが、ないわけではなかった。当時僕は、自宅のある静岡県浜松市の不動産業者の契約社員として働きながら、神奈川県藤沢市で会社を立ち上げた。

これを読んだあなたは「なぜ、立ち上げを神奈川で」と思われたかもしれない。確かにその通り無理があったと思う。

僕は、学生時代を横浜、日米往来時代は藤沢、平塚を中心に生活していた。僕にとってこの街は、単に若者から大人になる楽しいときを過ごしたと言うだけではなく、自分で考え行動する自分軸を育ててくれた恩詩の街だった。

会社を立ち上げるなら神奈川、とりわけ藤沢をスタート地点にしたい。メンバーも揃いそうだし週末なら行ける。今思えば気持ちだけ先走り、浅はかな考えだったと思う。

その半年後、会社の事業負債は1,500万円撤退を余儀なくされた。

僕は社員に神奈川からの撤退と別れを告げた。社員は現場当事者、僕以上に競合他社に太刀打ちできなかった無力感を抱いていた。

その後、テナントの解約、社員の失業保険(雇用保険)の手続きを行い、一旦会社を浜松市の知り合いの賃貸住宅に移すことにした。

引っ越し当日、営業車のバックミラーが見えないほど荷物を詰め込んだ。藤沢、茅ケ崎、寒川、厚木インターへと向かう車内、憧れた、夢を見た、あの湘南・西湘エリアは知らぬ間に遠く、いや僕がかってに近いと思い込んでいたにすぎなかった、と気づかされた1日となった。

浜松市での引っ越し、営業免許替えの手続きを終えるまで2ヶ月くらいかかった。この間に売ってお金にできそうなパソコン、机、椅子などはすべて売った。また自家用車も売って会社と個人のキャッシュフローだけは底をつかないようかき集めていた。

賃貸住宅の一室で営業を再開、平日は契約社員として働き週末は会社の立て直しに時間をあてた。ああでもない、こうでもない、将来への期待や不安を思いめぐらせ必死に働いた。

数ヵ月後、想像と現実の段差はあまりにも激しいことに気づいた。このペースではいつまでたっても返済のめどは立たない、働き方だけではなく生き方までも重くしっけた空気にからみつかれていた。

僕は周囲に分からないよう、はやる心をどうにかなだめすかしながらツテを頼り、浜松駅前の一等地スクランブル交差点で不動産賃貸仲介業を再開できる目途が立った。

僕は3年間の契約社員を終え、自分の会社に専念することにした。周りからは賛否両論あったものの、不思議とここで動けば運は好転しそうな気がしていた。

浜松駅前に移転後、2名の社員が入社し売り上げは安定した。そして1年後には新規事業で使えるお金が50万円ほどできた。

僕の飽きっぽい性格というのか、好奇心旺盛というのか、このまま今の事業を拡大すれば良いにも関わらず、無意識に生涯熱狂できるような新しい働き方を探し初めていた。

そんなある日、見覚えのあるベトナム人女性が店に来た。少し恥ずかしそうに片言の日本語で

「ワタシ トモダチオオイ トモダチヲショウカイスル オカネクダサイ」

「えっ、いいよ、いらない」

と伝えると彼女はサッと店を去っていった。

彼女は、以前友人の付き添いで何度か店に来たことのあるシウというベトナム人留学生だった。身長は160㎝くらいの細身、人なつっこい性格でいつも可愛い猫がプリントされた服を着ていた。

ここ1年間を思い返すと繁華街や飲食店には、数年前と比べ東南アジアからの留学生なのか技能実習生なのか明らかに増えている。

僕は何だか急にその理由を知りたくネットで調べた。すると「今ベトナムで日本留学がブームになっていた」。

確かに前回部屋を紹介したベトナム人は浜松駅周辺の専門学校生だった。このあたりの日本語学校や専門学校は、東南アジアとりわけベトナムから多くの留学生を誘致していると推測できた。

なるほどこれからの日越関係は、面白くなるかもしれない。この時流に乗ることができれば、東南アジアをまたにかけた仕事をできるかもしれない。次の旅は東南アジアか、それも悪くないな。思わずその空想にふけっていた。

後日、シウがまた店に来た。するとまた片言の日本語で

「ワタシ トモダチオオイ、トモダチヲショウカイスル、オカネクダサイ」

「分かった、良いよ。ただ日本語がわからないと困るから日本語の分かる人を連れてきて」

と伝えると彼女はニッコリして店を去っていった。

さすがに日本に来て1年の彼女と仕事の話をするのに不安があった。後日、シウは1人のベトナム人女性を連れて来た。

「こんにちは、シウの姉のクエムです」

お姉さんだ。見た目はベトナム人という共通点はあるものの、お互いの顔はまったく似ていない。初めは半信半疑だったが話を聞いていくと、どうやら本物のお姉さんのようだ。

クエムの日本語レベルは、今まで出会ったベトナム人の中でもっとも高く、クエムはシウの留学する2年前から留学していた。身長はシムより少し低く、人なつっこい性格は同じ。どこか日本の文化やコミニケションに慣れているようにも感じた。

僕はクエムと一緒に近くのカフェに行き、今日までの経緯を話しこれからベトナム人留学生は増えそうなのか聞いてみた。

すると今ベトナムではハノイやホーチミンの大都市だけではなく、地方の小さな町でも軒並み日本語学校(留学支援会社)が増え、生徒も年々増えているそうだ。

2人の出身地もタイビン省タイビン市(ハノイから100㎞以上離れ、人口20万人弱)という田舎町だった。

日本留学のきっかけは、町内放送で日本語学校が出来たことを知り見学、入学。そこからとんとん拍子で日本留学が決まったとのこと。ネットの情報もいささか表面だけの見方ではなさそうだ。

次は留学資金をどのように工面したのか。ベトナムと日本の所得格差は激しい、富裕層で流行るならまだしも中流家庭の留学生も多そうだ。

国費留学なら問題はない、ただほとんどが私費留学。私費留学の場合は、親が銀行から借り入れし留学中(アルバイト代)か卒業後に出世払いすることが多い。

毎月の学費や生活費は、留学生が日本に来てから自力でアルバイトして払う。親から仕送りをしてもらえることはほぼない。

ベトナムから日本留学する若者は、金銭的に大きなリスクを抱えての挑戦、実際日本に来て勉強とアルバイトの両立ができず、早々留学を断念する学生も多いそうだ。

急激に成長したベトナムからの留学市場、課題も多そう。また僕は私費留学生の頑張りに心を打たれ「クエムと一緒に何か留学生のためになることを始めよう」と考えた。

予算の関係もあり色々話し合った結果、留学生の皆さんが日本に来て頑張っている姿をFacebookで配信し、留学生同士の励み、母国で暮らす両親の安堵になるような記事をクエムと一緒に作ることにした。

そしてタイトル名は「留学の国、ジパング」。

ジパングとは、一節によるとイタリアの商人マルコ・ポーロの旅行記「東方見聞録」中で日本にあてられた地名。留学生にとってベトナムから見た日本は、マルコ・ポーロと同じように映っていたのかもしれない、まるで蜃気楼のように。

つづく

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