第九章 ここはまるで、スワロウテイル

第九章 ここはまるで、スワロウテイル

軽く朝食をとりスーツに着替えた。少し堅苦しいと思ったが僕は仕事で着る服に迷ったときはいつもスーツを着ていた。

予定時間、タンさんが車でホテルのフロントへ迎えに来てくれた。その足で静岡マウホアン日本語学校へ向かった。

この日本語学校は、毎年浜松市の日本語学校へベトナム人留学生を送り出す機関。僕が最初に出合ったシウ、僕の店でアルバイトをしているクエム、前回ダナンを案内してくれたハム、皆さんこの日本語学校の卒業生だった。あの留学生たちが育った学校を見に行けると思うと、日本にいたときからとても楽しみだった。

そしてホテルから15分ほどで日本語学校に到着。学校は繁華街や住宅地の人の集まる場所ではなく、国道のような大通り沿いに建っていた。建物は4階建てのオフィスビル、その1階から4階までの半分を借りていた。建物の入り口には生徒のバイクが30台ほどキレイに並んでおり、日本語以外にも礼儀礼節などの教育もしっかりされている様子だった。

僕は建物の中に入った。内装は1階手前側に受付、その奥に応接室。受付でスタッフの皆さんに挨拶し2階の教室へ向かった。階段には日本を連想させる富士山の絵や日本の写真など飾られている。建物自体は古いが全体的に清潔感があり学業に専念するには申し分のない環境だ。

僕は教室に入った。広さ20坪ほどの部屋にギッシリ20名ほどの生徒たちが僕を待っていた。生徒の男女比は半分くらい、年齢は十代後半、日本語学校指定のポロシャツ(オレンジ色)を着て3人掛けの長机に座っていた。先生の席には、黒板とチョークそしてパソコン。僕が子供の頃に通っていた学習塾とほぼ変わらない様子だ。

そしてタンさんは僕を生徒たちへ紹介しくれた。生徒たちは少し緊張していたのか、笑顔で僕に挨拶すると言うよりは真剣な眼差しで僕を見ていた。

生徒たちは日本に憧れ、借り入れなどのリスクを背負いこの日本語学校へ入学している。初めて日本人を目の当たりにし困惑したのかもしれない。それはまるで僕がアメリカに憧れ、初めて白人を目の当たりにしたときと同じように。

僕は30分ほど教壇に立ち、日本の文化や先輩たちの日本での暮らしを話し質疑応答に入った。すると驚いたことに日本の学校や文化と言った教育系の質問は一切なく、アルバイトや就職、ほとんどが仕事かお金の質問だった。

僕たちは日本語学校訪問を終え、昼食をとりながらその後予定していた地元の高校の授業参観へ向かった。その途中僕はタンさんへ質問した。

「なぜこんなベトナムの地方から日本へ留学したい学生が多いのか?」

タンさんは僕の心に残る話をしてくれた。

「チホウノガクセイハ、オヤノシオクリデ、トカイノダイガクニニュウガク、シュウショクシテモ、ユウフクナクラシハデキナイデス。ダカラオカネカリテ、ニホンリュウガクシテ、ニホンデシュウショク、ニッケイキギョウニシュウニショクシタイ。ソウオモッテイマス」

要は“ベトナムのドン”を稼いでも裕福な暮らしは出来ない、“日本の円”を稼ぎたいと言うことだった。

ここはまるで、「スワロウテイル」の世界だ。

スワロウテイルとは、1996年に公開された岩井監督の日本映画。あらすじは“円”が世界で一番強かった時代。一攫千金を求めて日本にやってきた外国人達のストーリー。Wikipediaより

僕たちは1986年に設立された生徒数約1,700人、39クラス、タイビンのマンモス校「レクイドン高校」へ到着した。3学年で約1,700人もの生徒が集まるとはベトナムの若さを感じた。

学校の第一印象は、とにかく建物は大きく、敷地は広い。そして建物の外壁は黄色や緑など派手な色調、日本の公立学校のような白色を色調とした建物と違ってとても大胆な建造物だった。

僕たちはまず校長室へ挨拶に向かった。校長先生の年齢は40歳前後で物腰の低い優しそうな人、タンさんに通訳してもらい

「ハジメテ ニホンジンヲミル セイトモオオイ。セイトタチハ トテモヨロコビマス。ユックリ ケンガクシテクダサイ」

とお話をいただき教室へ向かった。

まず目の前にある2年生の教室へ入ることにした。そしてドアを開けた瞬間

「ウォーー-!キャーー―!」

えっ、よっぽど日本人が珍しいのか、拍手喝采で僕は瞬く間に人気芸能人のような扱いだ。僕はタンさんの通訳で教壇に立ち、日本留学について20分程度話をした。するとどこから聞きつけたのか、別の教室からも多くの生徒がやって来て、教室の外も瞬く間に生徒で溢れた。さすがにこれ以上校内をざわつかせるわけにはいかないと思い、授業参観の教室はここだけにした。

ちなみに教室の広さや生徒数は僕が通っていた日本の公立学校と変わらない。使っているものは、生徒は教科書とノート、先生は黒板とチョークとここも変わらない。あえて違いを探すなら、机は個別ではなく3人用の長机と土足くらいだった。

服装は、上着は白のシャツで学校指定、下は自由、ジーパンが多い。通学は徒歩、自転車、原付のような電動自転車。学生の声を聞くと、日本への憧れは日本語学校と同じでとても強く、今後の日越関係は強固な繋がりになると確信した。

そして僕はバレーボールが得意なので部活動に参加したいと伝えた。するとこの学校に部活動は無かった。では生徒の放課後はどんな感じなのかたずねると、自宅に戻り家事の手伝い、勉強、友達と遊ぶことが主流だった。もしかしたら部活動は先進国やお金持ちの娯楽なのかもしれないと考えさせられた。

15時頃学校訪問を終え、僕たちはタイビンの田舎町で暮らすタンさんの知人宅を3軒ほど訪問することにした。これは僕が事前にお願いしていた予定でベトナムの田舎とはどんなものなのか、自分の目で見たかった。

ちなみに今回のタイビン、事前に田舎町と聞いてはいたが僕が宿泊しているホテル、先ほど訪問した2校とも田舎さを感じなかった。そして先ほど通った道を逆の方向へ15分ほど走った。

すると景色は一変、道はアスファルトから土に変わり、脇道は車が通れないほどの細さ、そしてやせ細った野良犬があちらこちらでウロウロしていた。ここは確かに田舎町、数十年時間が止まっているように感じた。

僕はタンさんへ質問した。

「このあたりの人はどんな生活をしているのか?」

「ノウギョウ」

なるほど、住民はここで自給自足の暮らしをしていた。だからあえて都会と関係を持つ必要もないし、インターネットが無くても極端に生活にも困ることもなかった。

僕たちは予定していた3軒すべて訪問した。共通していたのは、息子や娘は成人し都会暮らしでもうこの家に住んでいない。家の壁には息子や娘の結婚式の写真や孫の写真が飾られている。どこか日本の地方の家と似ているように思えた。

あとお会いした住民の年齢は60代くらい、この人たちは年代的にベトナム戦争(終戦1975年)を体験している年代だ。昨晩、家具屋の社長に聞きそびれたので今回こそ聞いてみたいと思ってはいたが、きっと良い思い出は無いだろうと思い心が引けまた聞けなかった。

夜、昨日今日を振り返ってみたが何か懐かい、そしてふと気づいた。

「そう、ここベトナムは昭和の日本だ」。

現代的にインターネットやスマートホンも普通に使われているが、所々で昭和の日本を感じる懐かしさがあった。

「母親は元気に暮らしているだろうか」

いよいよ明日は、クエム、シウの実家に行く。どんな町で育ったのか、とても興味があり、楽しみだ。そして床に就いた。

つづく。

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